自然栽培の野菜
自然栽培の考え方
お米や野菜、果物、毎日いただく食べ物は、どれひとつとっても、
人間が人工的に作りだすことはできません。必ず自然の恩恵に
あずからなければなりません。自然栽培による作物作りは、自然の力を
最大限活かすことにあります。地球は自転・好転運動をして絶えず
動いています。地球以外の星も例外なく一時たりとも止まることなく
動いています。宇宙の中を絶えず動いているのが地球を含めた星々の
すがたです。星々を動かすエネルギーは人間の想像をはるか超えた
ものです。地球の自転速度は毎秒500メートル、公転速度は毎秒30キロ
メートル。この大きな地球を動かすエネルギーは人間のちからで作り出すことはできません。
このエネルギーに満ちた大地はさまざまな植物の源です。人間がいなければ植物が育たないなんてことは
絶対にありません。植物は人間の親なのです。多種多様な植物を育む大地のエネルギーを阻害しないことが
自然栽培のもっとも大事なことです。土本来のちからから人が日々いただく食べ物は育つのです。
人為的に肥料を施すことなく土本来の生命力がお米や野菜や果物を育みます。
天恵の里 磯貝 香津夫 群馬県富岡市
昭和25年(1950年)3月26日寅年生まれ
私は30歳ころより体調を崩し四つの症状(不眠症、腰痛、花粉症、蓄膿症)で苦しんでいました。そのことが食と農業のあり方に疑問を持ち、改めようとする動機となったのです。
四つの症状のなかで最も苦しかったのは不眠症でした。夜、寝床に就いてもなかなか眠れず、手足に強烈な倦怠感を感じ、もし出来ることならこの手足を切り取ってしまったら随分楽になれるのではないか、と思いながら眠れぬまま時が過ぎ新聞配達員が走り始めるころにようやく浅い眠りに就き、まるで判で押したように毎朝怖い夢を見ていたのです。
市内で一番の病院で検査を受けても、異常無しと言われ、失意の日々を送っていたのです。ところが、ギックリ腰に見舞われたことで生きる希望を取り戻す契機になったのです。
隣町に住む知人のT.Sさんが紹介してくれた日本に古来から伝わる「足心道」という治療を受けた際に「あなたは腎臓がかなり弱っていますね」という衝撃的な指摘を受けたのでした。数回治療をして頂き痛みから解放されたので、先のT.Sさんにお礼の挨拶のため訪問した際、再び強烈な衝撃波に見舞われたのでした。氏は「磯貝君、いいかね、君の体の不調は食べ物からきているんだ。これからは市販の味噌、醤油はやめて昔ながらの年月をかけて熟成し化学物質を使用していないものにしなさい。それから肉、魚、卵、乳製品も腎臓を痛める原因となったのだから今すぐやめるんだ。俺は今68歳になるが20歳のころ医者から30歳まで生きたら儲けものと言われるほど病弱だったけど穀物菜食で今でもこのように元気で毎日すごしているんだよ」というのです。「溺れるものワラ一本にすがる」状態の私を見抜いていたのでしょう。
このことがやがて石田英湾先生や大森英櫻先生の教えを頂くことの出発点になり、農業に於いても慣行栽培から有機栽培へ、さらに自然栽培へと変遷する原点となったのです。
自然栽培に於いて作物が育つ根源的なものは太陽と月、それと私たちが住んでいる地球から出ている力(エネルギー)によるものだと考えています。これらの力のことを日本では「気」という概念で捉えています。太陽と月からの気は地球上どこでも降り注いでいます。一方、地球からの気は本来どこでも出てきているはずなのですが、化学肥料や農薬の残留物が地中にあると土は冷えて固まり、そこで止まってしまいます。
地球の気を止めているそれらのものを「肥毒」と呼んでいます。この肥毒を浄化して初めて自然栽培が可能となるのです。
今から50年程前に化学肥料が一般に使われるようになり、その時から日本全土の土は進化を止めてしまいました。この事により日本人の進化も停滞してしまったと言ってもよいでしょう。
一人でも多くの人がこの事に気がついて本来の道に戻ってゆけたら嬉しいですね。この様な流れが始めは細くても少しずつ広がりやがて大河になってゆくことを私は念じています。この道のりを皆様と共に、背中に過去の遺物を背負いながらも、胸に未来への希望を抱いて歩んでゆきましょう。
北海道北見無肥料自然栽培 60年 秋場農園 3代目秋場和弥さん
北海道北見の大地で無肥料自然栽培を始めて36年。私達は環境を守り、人の命と健康に資するという農家としての道義心の下、未来の子供達へ安全で美味しい物を提供する事が農業者の義務責任だと思っております。
一方で際限なき無限大。もう一方で現代科学にて未だ解明されない無限微の太陽系宇宙エネルギーの恩恵を受けて全生命の呼吸を許されているこの地球にあって、無から有を生み出せる生産の最前線にある農業者として太陽(火)、空気(水)、土(土)の三大恩恵によって生産される作物が人々の健康を豊かに作り出し、その大地から発せられるエネルギーは地球環境浄化に、又人心のうるおいに寄与しうるのではいかという事を事実を以ってその型を示せるよう最善を尽くしたい!
秋場和弥プロフィール 2001.4.NHK提出
私の祖父母が北見市に入植致しましたのは大正15年。その年に父が生まれたということですので、ちょうど4分の3世紀となるようです。北海道の開拓の歴史は屯田兵制度により、有事の際は対ロシア警備の兵隊として一方で教練を受けながら、血のにじむような苦労と努力の末、屯田兵のご家族の方々によって進められました。私の祖父母は1926年、親類筋による屯田兵の地所の一部を開墾・小作しながら父達を育ててきたと聞いております。ただし父の兄弟が成長する頃は、開拓屯田兵の二世・三世の時代背景となり、その方達は比較的裕福な経済状態となっていて、その小作人として育った父達は経済的には相当貧乏な状況にあったようです。そのような環境の中で、父も当時は中学進学をあきらめざるを得なかったという悔しさをよく話しておりました。
私が物心ついた頃は、約6ヘクタールほどの水田稲作農家となっておりました。小学校高学年頃から、秋の収穫時は学校から帰ってから星が見える頃までよく手伝った記憶がございます。農家の長男として家業を継ぐつもりでしたが、北限地帯での水稲栽培の為、3年に1度は収穫皆無に近いようなことがあり、私の高校在学中など3年に2度も続いた次第でした。北限の水田農業に親子して絶望してしまった経緯の中、父は自らが断念した進学希望を、自力で就学するなら機会を与えると申し入れてくれ、私は毎日新聞奨学生として、1971年中央大学商学部に入学することになりました。それから5年、途中朝日新聞にきり変わりましたが、なんとか卒業の運びとなり、76年、先輩にあたる千葉県大原町の自然醸造蔵元(木戸泉酒造)の妹であった妻と一緒に北見に戻り、農業を始めました。
さかのぼりまして71年、農薬・化学肥料の大量普及から、戦後の食糧難は一転し、大量の余剰米対策のため、第一次休耕政策の発令となりました。父は絶望した水稲栽培を全面積畑作に変換し、補償金をリスク対策費として全面積を自然農法に切り替え、再び農業の希望を見出しておりました。ちなみに自然農法とは、戦中、戦後、日本観音教団、後の世界救世教の祖岡田茂吉師の提唱した、太陽(火)と空気(水)と地(土)の力のみによって栽培し、人育糞尿堆肥・化学肥料・農薬など一切使用しない農法です。我が家では祖父の代から(私の生まれた52年度)自家用の米・野菜は実験的に栽培証明済みだったので、私の状況に合わせて全面実地に踏み切るに至りました。
当時公害問題がようやく社会にクローズアップされ始めておりました。私も東京での労働と学生の二足の草鞋生活に疲れ、特に当時の空気と川の汚さは、改善されてきた現在より相当ひどかったような気がします。その頃妻や妻の兄と知り合いになった千葉県内にあった自然農法農場は、その後生涯の師と仰がせていただくことになったI先生が青年教育の根幹に無公害農場での実習体験を取り入れて栽培していた農場でした。都会生活での疲れが心底癒され甦ってくる感動の中で、5年前気候条件と経営の厳しさに絶望して東京へ出てきた経緯を乗り越えていこう、という若い情熱が勝り出ました。父との相談の上、政府資金を借り入れ新たに10haの農場を購入して、自らが目覚める基となった事を念頭に、青年教育実習農場と北限の地での自然農法の経営の成就を目標に、76年妻とその第一歩を踏み出した次第です。
前段長くなりましたが、この四半世紀延べ100名近くの青年実習生がおいでになり、多額の負債を抱えながらなんとかここまでやってこれたことを、感謝しつつ振り返らせていただこうと思います。青年の出入り、育成、販売も含めた農場の経営は、I先生のご尽力とご指導無しには今日まで持ちこたえることは出来なかったと思います。農場拡大の準備年の74年、75年と第一歩を踏み出した76年、私が千葉県で青年時代に供に汗した何人かの人達に冬将軍到来前の最も厳しいときに応援していただき、未熟な私たち夫婦をもり立てていただきました。一方で経営、販売面においても、世間の、寒冷地農業に安定した経営形態を確立させ、農家戸数も三分の一くらいに集約し、化学肥料の効率的散布と除草剤始め農薬の適期散布でオートメーション化された世界から見れば、私たちのやっていることはあまりに無為に映ったここと思います。そのことについては若さと健康で、日の出から夜更けまで、妻や実習生と喜びで頑張れたと思います。